日本初のFPC開発への挑戦
~住友電工・叡智を結集した半世紀~
手探りの中でFPC開発は始まった
1960年代のはじめ、米国において軽量・小型化を実現する機器配線材料として、主に航空宇宙産業用途向けに開発が始まったのがFPCだ。住友電工グループでは、1965 年に新しい機器配線材料としてテープ電線の研究に着手し、さらにその延長線上の究極の電線として、他社に先駆け、FPCの探索研究を開始した。しかし当時は文献や技術資料がほとんどなく、基本的な検討から始めざるを得ず手探りの状態からの出発であった。
FPC事業の黎明期、FPC開発メンバーにアサインされたのが、大阪研究部の部品材料開発室に所属していた岡﨑謙である。入社時は「新しいことを手がけたい」という思いから、フッ素樹脂の研究開発に没頭。成果はスミフロン®コートに結実し、調理家電に広く採用された。岡﨑がFPCの研究開発に着手したのは、事業開始から数年経っていた時期で、計測器メーカーに一部採用されたものの、事業化にはほど遠い状況だった。
「面白い技術とは感じていましたが、どのアプリケーションに適用できるのかがわかりませんでした。一方で、FPCは一品一様、カスタマーデザインが求められる部品のため、当社に体質的に合うかどうかの不安もありました」(岡﨑)
その岡﨑が米国での研修で、ある気付きを得た。「米国で生まれ育ったトランジスタやIC(集積回路)の民生用としての展開は、実は日本がリードしている。FPCも同様の道が開くかもしれない」。岡﨑は技術者として、エレクトロニクス機器の「軽薄短小化」の流れを感じていた。そして試作を重ね、電卓のフラットキー部分に採用が始まり、その後折りたたみ電卓の一体化配線基板として量産化された。これがFPC事業の最初の転機となり、社会が注目する契機ともなった。1975年半ばのことである。
積み重ねたノウハウが大きな強み
ここから、本格的な市場開拓が開始された。カメラ、CB無線トランシーバー、カーステレオ分野などでの採用が急増、1979年にサービスが開始された自動車電話では独占受注に成功した。さらに、CDやフロッピーディスクなど「ディスクの時代」の到来が、FPCの存在感を高めた。そして、事業拡大を受けて、手狭となった大阪製作所の研究棟から名古屋製作所に移転、その後受注も順調に増加した。さらに売上増の大きな要因になったのが、1982年に立ち上がった「FIC基板*」である。これはポータブルVTR用基板であり、その開発量産化に成功したことで、大手家電メーカーに採用され、住友電工グループの業界でのプレゼンスを確固たるものとした。
「優位性を確保していたとすれば、それは“失敗の歴史”があったから。試作の失敗が度重なる中で、FPCの知見やノウハウを積み上げてきた。だから問題が起きても、その要因を速やかに突き止め、適切な対応ができる。それが顧客からの信頼確保につながったと思います」(岡﨑)
1990年には、滋賀県湖南市に生産子会社・住電サーキット(株)が設立され(2000年、同県甲賀市に名古屋から事業集約し本社も移転、住友電工プリントサーキット(株)へ社名変更)、FPC需要は急増し、携帯電話に続くスマートフォンに必要不可欠な部品として、需要はさらに大きく拡大していった。
*FIC 基板:金属補強板付き FPC
FPCの事業を支えた住友電工の企業文化
住友電工グループのFPCの生みの親が岡﨑であるならば、中興の祖ともいうべき存在が木村壽秀だ。入社後部品材料開発室に配属され、FPCの接着剤の開発に従事。以来、赴任してきた岡﨑の厳しい指導の下、日々FPCの開発に明け暮れた。その後、事業拡大に伴い名古屋でFPCの開発・製造を続け、1990年に生産子会社の立ち上げに歩調を合わせ、滋賀へ。開発を進めながらも事業の安定化に尽力した。
「プリント回路の仕事は変化が大きく、ユーザーの機器が売れなければ、注文はすぐになくなる。だから、常にユーザーの情報を入手し、いかに在庫を持たないか、リードタイムを短くするかなど、試行錯誤の連続でした」(木村)
努力が功を奏し、ようやく安定して黒字を出せるようになり、1996年プリント回路事業部が誕生、木村が事業部長に就任した。カメラ付き携帯電話への搭載や海外携帯メーカーへの供給開始など、時流にもうまく乗って事業拡大に大きく貢献した。さらに、木村は事業基盤拡充のために海外へと目を向ける。人件費が安く、まじめな国民性に着目し、中国・深圳(シンセン)、フィリピンへと製造拠点の立ち上げを推進し、現在のグローバルサプライチェーンの礎を築いた。
長きにわたりFPC事業を支えた木村に、事業成功の一番の要因について聞いた。
「住友電工の企業文化が大きかったです。夢を持って『これをやりたい』と言えば、『やめろ』とは言わず、『やれ、応援してやる』という環境でした。これがなければ、収益が上がらない時期にFPC事業は潰れていました。住友電工の企業文化は、本当にありがたかったです」(木村)
生産技術と設計の最適化に向けて
同じく岡﨑・木村の下で、一貫してFPCの生産技術を担当してきたのが荒牧秀夫だ。
「生産の各工程で様々な課題があり、日々それらの解決に取り組みました。銅箔とポリイミドを貼り合わせる接着剤をいかに適正に制御するかや、エッチングおよび加熱工程における寸法変化の安定化など、マニュアルが少ない中で格闘し、FPC生産の最適化を追求していきました。印象深く残っているのは、連続でのスクリーンプリント技術を確立したこと。画期的な合理化を実現した印刷技術でした。また、中国・深圳に新工場を立ち上げたことも忘れられません。重圧と緊張感の中、社内関係部署の協力を得て、短期立ち上げを実現しました」(荒牧)
荒牧の1年後に入社したのが村本勉である。村本はデザインエンジニアとして、顧客との技術的折衝を担った。
「私はFPCの有効性を訴求しつつ、顧客が何にどう使いたいのかをヒアリングし、当社のFPCとのニーズのすり合わせを担当しました。プリント基板が曲がるという特性をいかに顧客の製品に最適設計できるか。印象深いのは、携帯電話、スマートフォンの登場です。事業が確実に拡大していく手応えが嬉しかったですね」(村本)
岡﨑に言わせれば、当時FPC事業に関わったメンバーは戦友であり、ファミリー。独特の結束力があった。FPC生みの親である岡﨑に、これまでの50年、そしてこれからの50年について語ってもらった。
「当初、ここまで事業が拡大するとは思ってもいませんでした。後輩たちには、よくやったと言いたいです。ただし、これからの50年は今までの50年の延長線上にはないと思います。情報を先取りして、先見性を養い、豊かな発想で、新しいFPCの世界を創造していって欲しいと願っています」(岡﨑)
同じく木村も後輩たちにエールを送る。
「失敗してもいい。大事なのは、失敗したことによって何を得るかということ。だから、失敗もすごく大事なことです。ビクビクせず、思い切りやって失敗したなら、その反省を次に活かせばいい。これからも失敗を恐れずに、どんどん挑戦して欲しいです」(木村)